『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を見て死を思え
小さいころ、当たり前のようにゴジラが好きだった私は「ゴジラになりたい」と思っていた。もちろん「大きくなって努力すれば身体がなんか変化してゴジラになれるだろう」と幼心に思っていたわけではないが、理屈ではなくゴジラになりたい、近づきたいと考えていたのだ。
当時幼稚園だった私はどうすればいいだろうと考えた結果、ゴジラの鳴き声を真似してみた。喉を鳴らすように意識するとゴジラっぽい声が出るのだ。当時は『ゴジラVS◯◯』シリーズ全盛期。子供を釣るためのエサはドラえもんでも仮面ライダーでもガンダムでもなく圧倒的にゴジラだった。私が通っていた幼稚園は「今年の運動会のテーマはゴジラにしよう。ゴジラのように強い子供になろうとかそんな感じで」みたいなテーマを掲げ、クラスでいちばんゴジラの真似がうまいやつにゴジラの泣き真似をさせて行進しようとか、なんかそんな企画をやろうとしていた(なにぶん幼稚園の頃の記憶なのでディテールは忘れた)。
そこでゴジラのオーディションが行われた。いま思えば幼稚園にしてはじめて「人に選ばれる」ということを意識したイベントだったことは間違いない。私は、自分こそがもっともゴジラに相応しいと当然思っていた。まわりの奴らはザコばかりだった。先生から「はい、ゴジラの真似ー!」と言われるとやつらはハンコを押したように「ガオーッ!」とか言いやがるのだ。ガオーッ! はないだろう。ガオーッ! は。カタカナの読み方を覚えたのがうれしくて『たのしいようちえん』で読んだオノマトペを鵜呑みにして探究心を忘れてしまったのか?私は心底やつらを見下していた。そして私の番だ。私は自身満々に……そう、王。怪獣の王さながらに喉を鳴らして叫んだ。「ア“ア”ア“ア”ァ“ァ”ァ“ーーーン”ン“ン”ン”ン“!!!!!!!!」と。私は優勝した。
だがこの話にはマヌケなオチもあって、結局運動会当日に先生に導かれるままに喉を鳴らして叫びまくった結果喉が完全に死んだ。この叫びは喉に極端に負担をかける危険なシャウトだったのだ。私はそれ以降ゴジラの真似をするのをやめた。
小さい頃、VSシリーズを入り口に、「ほかに娯楽もないしな」とレンタルビデオ屋で旧作のVHSを借りてゴジラに浸かった私は、じつに健全に育った。ゴジラを英雄視し、「ゴジラになりたいな!」と無邪気に考えていたのだ。だが、だがもしもだ。幼稚園生の子供が……うっかり人生初のゴジラとして『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を映画館で見たとしたら。そしたら……その子供は「ゴジラになりたい」ではなくこう考えるようになってしまうのではないか。「死ぬときはゴジラに殺されたいなー!」と。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ははっきり言って狂っている。前作、ギャレス・エドワーズによる『GODZILLA』、通称ギャレゴジにてゴジラに超肯定的で、意地でも「ガッズィーラ」ではなく「ゴジラ」と発音する劇中唯一の日本人にしてゴジラ界のレジェンド、芹沢の名前を継ぐ男を演じた渡辺謙は鑑賞したすべての人間から気味悪がられていたが(その気持ち悪いまでの存在感が魅力のキャラクターでもあったと一応補足しておきたい)、今回の監督のマイケル・ドハディは聞くところによると渡辺謙演じる芹沢博士寄りの思想の持ち主だったらしく、『ゴジラ KOM』をすさまじいメッセージ性を持った作品に仕上げてしまっている。
そう、『ゴジラ KOM』はめちゃめちゃにメッセージ性の高い映画だ。みんなはメッセージ性が高い映画と言われるとどんなことを想像するかな?おそらく愛、友情、環境破壊、人類をよりよくするために我々ひとりひとりにできること……そんなことを想像するだろう。だが本作は違う。『ゴジラ KOM』が強烈に我々に伝えたいメッセージはただひとつ。「怪獣の王はゴジラである」。ただそれだけなのだ。この映画はそれを伝えるために作られた新時代の神話なのだ。宗教映画である。我々は新たな王、新たな神(とはいえゴジラは太古の昔より地球に生きているので古き神とも言えるかもしれない)、ゴジラへ圧倒的な畏敬の念を抱いて劇場を出ることになるのである。ヤクザ映画を見たあと、人は肩で風を切って歩くという。だが『ゴジラ KOM』を見て映画館を出た人類にできることはただひとつ、祈ることだけなのだ。
本作は非常にクールな点がある。キングギドラの使い方だ。キングギドラといえば言わずもがな、ゴジラの最大のライバルだ。ほかにもラドンやアンギラス、ガイガンやメカゴジラなど多種多様な敵とゴジラは戦ってきた。それでもゴジラのライバルはキングギドラなのだ。なぜか我々の遺伝子にはそう刻まれている(太古の記憶かもしれない)。本作はそのキングギドラを満を持して投入し……だが、投入したうえで、この映画最大のメッセージを伝えるための当て馬として最大限に利用した。
そう、キングギドラ、キングギドラなんて名乗っちゃいるがあんなやつはフェイクやろうだ。王の中の王、キング・オブ・キングスはゴジラに決まっている!!! キング・オブ・モンスターズ!!!!
そうなんだよ!!! キングギドラは王じゃないんだ!!! 王はゴジラなんだ!!! なんてこった。小さいころから「怪獣王ゴジラ」という言葉を耳に大ダコができるくらい聞いてきたというのに王と王の対比という点にまったく考えが及んでなかった! このことに気づいたとき「なんてクールなんだ!!!!」と口を覆ってしまった。しかも、そのうえ次作ではアメリカが誇り、過去にも怪獣王とやりあったもうひとりの王、キングコングとのバトルが控えているのである。この座組みの美しさだよ!!! 本当に美しい。美しいんだよな〜〜〜!!!
そう、もうひとつ。本作は純度9億%の暴力オンリー映画である。だが、同時に怪獣が出るシーンはどれも常識はずれに美しい。こんな美しさがまだあったとは……! 本当に、本当に怪獣の出るシーン1カット1カットをいちいちスクリーンショットしてしまいたいくらい圧倒的「絵画」がスクリーンに現れるのだ。キングギドラが偽りの王として君臨するあのカット、あそこでやられない鑑賞者はいるのだろうか?私は無理だった。とにかく全シーンが「絵」なんだ。すごいんだ。圧倒的な破壊、暴力は美しさにつながるんだ。本当にすごいものを見た。
ほかにもいろいろディテールについてや、「あのシーンのあいつがさ……」など細かい話をしたい気持ちもある。だけど今回はやめといた。やめといて、「この記事はネタバレないッス」で書いちゃおうと思った。そんな話は場末の酒場で酔っ払いながら語ればいいのだ。我々がいま、最速でまだ『ゴジラ KOM』を見ていない人間に伝えるべきことは「死ね」の二文字だけである。『ゴジラKOM』は圧倒的な暴力によって総ての人間に平等に死を伝える映画だ。あまりに極端な暴力に曝されたとき、人は死を恐れない。死を美しく、尊く思うようになってしまうのである。太古の人間は災害や病気、飢饉を神と同一視し、崇めたという。今日、2019年5月31日になるまで、私はその感覚がわからなかった。だが私は知ってしまった。ゴジラによって。
みんな、ゴジラで死のう。死んで、映画館から出た時、君は蘇っている。そして第二の人生を歩むんだ。「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』のように…………。